眞栄田郷敦の父は千葉真一、兄は新田 真剣佑で二人とも有名な俳優です。
眞栄田郷敦自身も俳優・モデルと芸能界で活躍されています。
眞栄田郷敦はアメリカで生まれ育ち、12歳になるときに日本へ帰国し京都で母親と暮らしていました。
中学時代は吹奏楽部でサックスを担当し部活動に励んでおり、全国大会にも出場しています。
16歳になった眞栄田郷敦は岡山の高校に入学し寮生活を送ったそうです。
なぜ、眞栄田郷敦は京都から離れている岡山の高校に通っていたのでしょうか。
また、眞栄田郷敦の高校時代について調査したので、ご覧ください。
Contents
眞栄田郷敦の高校が岡山だったのはなぜ?
眞栄田郷敦はアメリカに住んでいた頃、2年間バンド演奏でサックスを吹いていました。
母親の実家がある京都へ帰国してからも吹奏楽部に所属しサックスを続け、中学2年生の頃には「プロのサックス奏者になりたい」と強く想い、東京藝術大学への進学を目標に!
岡山にある明誠学院高校は東京藝術大学への進学へのステップとして選びました。
明誠学院高校は男女共学の学校で吹奏楽部の名門として知られているほか、芸能コース、医師を目指すコース、難関私立コースなど、さまざまな学科がある高校です。
眞栄田郷敦は特別芸術コース吹奏楽系を選択しています。
眞栄田郷敦はプロのサックス奏者を目指していた
眞栄田郷敦がプロのサックス奏者を目指すようになったのは、12歳までアメリカに住んでいた頃の経験がきっかけです。
当時通っていた学校でバンド演奏の授業がありサックスを演奏しました。
眞栄田郷敦はサックスに魅了され、アメリカの学校で約2年間サックスを続けていました。
帰国後、京都にある中学校で従兄が吹奏楽部の部長をしており、眞栄田郷敦自身もサックスの経験があったので、「吹奏楽部に入ろう」と考えました。
千葉真一と疎遠となったことや、サックスへの情熱も並ならぬものがあったのでしょう。
眞栄田郷敦が高校を卒業し芸能界へ足を踏み入れてから、メディアでのインタビューで中学時代に吹奏楽部でサックスという打ち込めるものが見つかり、さらに仲間もできたことで救われたと言っています。
多感な年頃に打ち込めるものを見つけられたのは、眞栄田郷敦にとって幸運な出来事だったと思います。
プロのサックス奏者になるという目的を達成するために、進路を自身で考えて実行に移したのは素晴らしい行動力です。
眞栄田郷敦の明誠学院高校時代は吹奏楽部で部長をしていた!
眞栄田郷敦が親元を離れ、吹奏楽部の名門である明誠学院高等学校へ入学し、寮生活を過ごしていました。
吹奏楽部に在籍し活動するのと並行して、ソロ活動も行なっていました。
自他共に認めるくらい音楽に夢中だった高校時代でした。
部員とともに猛練習をするほか、週末は12時間以上練習をしていたため、唇がボロボロになったそうです。
音楽活動に真摯に向き合ったことが認められ、高校三年生の時は吹奏楽部の部長を務めました。
眞栄田郷敦は吹奏楽部時代を振り返って、夏の季節は大会に向けた合宿の際、「花火大会行きたいね〜」と合宿所の窓から花火を見たことがよい思い出となっているそうです。
高校3年生の時、2017年10月に開催された第65回全国日本吹奏楽コンクールに出場し、銅賞を受賞しており、テレビ取材を受けていました。
眞栄田郷敦は明誠学院高等学校でモテていた!
眞栄田郷敦は高校時代からイケメンで183cmの高身長であることから、モテていたそうです。
12歳になるまでビバリーヒルズに住んでいたため、流暢な英語を話せることも、ファンクラブができるほど有名人になった理由です。
他校の女子高生も眞栄田郷敦目当てに練習やコンクールを見に来ていました。
眞栄田郷敦自身は、サックスに夢中であったため、女性には興味がなかったようです。
まとめ
眞栄田郷敦はアメリカでサックスに出会い、日本へ帰国してからもサックスを演奏し続けていました。
中学時代は吹奏楽部でサックスを担当し部活動に励んでおり、高校進学もプロのサックス奏者になることを夢見て岡山の高校へ進学するほどでした。
眞栄田郷敦が選んだ岡山の高校は全国大会に出場する常連校で、唇がボロボロになるまで練習をしたそうです。
残念ながら、東京藝術大学の受験は不合格となりましたが、父親である千葉真一の勧めで芸能界での活動を通じて自らの表現の場を広げることを決意します。
俳優としてのキャリアをスタートさせた彼は、その端正なルックスと演技力で瞬く間に注目を集め、数多くのドラマや映画に出演しています。
眞栄田郷敦が通っていた岡山の高校での思い出は、彼にとって生涯の財産となっているのではと思います。